※第5日目です!
※田中忍 – 「青女の月」(1991年9月、ワニブックス) Shinobu Tanaka |
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田中忍(内野しのぶ)・・・詳しいプロフィールは判らず。 本写真集は、彼女が27歳の時に撮られたものである。身長162cm、B85cm、W59cm、H86cmの成熟したボディは見ごたえあり。 |
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※田中美佐子(1983年6月、別冊スコラ・横須賀功光撮影) Misako Tanaka |
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田中美佐子さん・・・昭和34(1959)年11月11日生まれ、島根県知夫郡(現・隠岐郡)西ノ島町出身。 松徳女学院高等学校(現:松徳学院高等学校)卒業後、東洋女子短期大学英語英文科に入学。 在学中に劇団ひまわりに入団し、卒業後の1981年、TBSの緑山私塾からドラマ『想い出づくり。』でデビュー。 1982年、『ダイアモンドは傷つかない』で映画初出演(主演)]し、第6回日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞。 またこの時期にはキングレコードから歌手としてもデビューしている。 その後、芸能活動を休止。 所属事務所の移籍先を1人で探した事もあり、その時相談に乗ったのが当時浅井企画で萩本欽一氏のチーフマネージャーだった佐藤宏榮氏である。 佐藤の力添えで浅井企画へ移籍した後は女優業を再開し、確かな演技力で数々のドラマ、映画、舞台などへ出演。 そして、佐藤が独立(佐藤企画設立)する際、田中も佐藤企画に移籍した。(佐藤企画第一号タレントとなった) 佐藤が独立後も業務提携の形で萩本欽一氏のマネジメントをしている事もあり、田中美佐子主演舞台の演出を萩本欽一が何度も手掛けている。 そして、みんなが驚いた結婚のハナシ。 1995年11月、元付き人で、お笑いコンビ・Take2として活動を始めたばかりの深沢邦之と結婚。 深沢は田中より7歳年下であり、収入も田中と比べるまでもない不安定さだったが、深沢の“普通”さを気に入り、田中からプロポーズをしたという。 また当時の田中は35歳だったがその心境を年齢的にヤバかった。36歳になったら、もう(結婚)できないって気がしたと明かしており、相手は東貴博でも良かったのだが、東はまったく女性として見てくれてなかったとも語っている。 東はこれに関して「(田中は)親分肌の人で、怖い」と述べている。 当時年収1億円を誇り女優として存在が確立されていた田中と、月収10万円のお笑いタレントで年下でもある深沢との結婚を報じるワイドショーや週刊誌上ではその格差生活を危ぶむ声もあったが、その後も良き家庭を築き上げている。 2002年12月、女児を出産。それ以降数年は育児優先のために休業していたが、2005年10月に連続ドラマ『ブラザー☆ビート』で女優復帰してからは精力的に活躍している。 |
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※如月舞 – 「をんな・のすたるじい」(1994年) Mai Kisaragi |
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如月舞・・・昭和52(1977)年9月、新潟県生まれ。有限会社MKコミュニケーション代表取締役社長。 小学生時代は両親の離婚や虐待に見舞われる毎日。 転校を4回も経験。中学生になると、タバコやシンナー、万引き、傷害など毎日のように問題を起こす。 高校には進学せず、さまざまなアルバイトを経験。16歳で一人暮らしを始め、自分でデートクラブを運営。 エイズ(HIV)と告知され絶望し、薬物に手を出しどん底の生活を送る。 しかし、その後、違う病院で受けた再検査では陰性の診断を受ける。 18歳、パチンコ屋のアルバイトをする。20歳、テレビに影響され、六本木のキャバクラ『Hanako』へ転職。1年でナンバーワンになる。 その後、雑誌やテレビの取材などでカリスマキャバ嬢として有名となり、六本木ナンバー1と呼ばれるようになる。 24歳で、経営コンサルティングおよび飲食店経営の会社を立ち上げる。 27歳(2004年12月)、六本木に会員制の『Kaco Wine House & Bar』をオープン。 現在、オーナーとして同店を経営。また、キャバクラ嬢時代の実力をかわれ、六本木クラブ『ヴォーグ』でママとしても活躍中。 ・・・と、2005年9月に発刊した著書『ロングドリーム』に書かれていた。 現在の消息は不明である。 |
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※樋口可南子 – 「water fruit 篠山紀信+樋口可南子 accidents 1 不測の事態」(1991年) Kanako Higuchi |
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樋口可南子さん・・・昭和33(1958)年12月13日生まれ、新潟県加茂市出身。新潟県立加茂高等学校後、女子美術大学に進学。 1978年、大学1年在学時に銀座のあんみつ屋でアルバイトをしているところをスカウトされたという設定で、20歳の時にポーラテレビ小説『こおろぎ橋』で主演デビュー。(その後、大学は中退する) 1980年に『戒厳令の夜』で映画に初出演し、初ヌードを披露。 1981年に『北斎漫画』に出演。田中裕子さんとのダブルキャストで両人共にヌードを披露した。北斎の娘・栄を演じた田中裕子氏は三枚目の役どころ、ホオズキを鳴らす妖しげな女を演じたのが樋口可南子氏であった。 1983年、『もどり川』に出演。萩原健一、原田美枝子と共演を果たした。 1983年の谷崎潤一郎原作の映画『卍』でのレズビアン役。 1987年に山田詠美原作の映画『ベッドタイムアイズ』での大胆な濡れ場シーンなどを演じて話題となった。 スクリーンで、裸体を惜しげもなく披露する一方、テレビドラマでは山田太一脚本のフジテレビ『早春スケッチブック』やNHKの連続テレビ小説『ロマンス』、TBS系『ラブバラードを君に』に出演している。 そして、1991年、篠山紀信撮影の写真集『Water Fruit 不測の事態』を発刊、ベストセラーになる。(出版科学研究所調べ、2003年6月までの集計で55万部) この写真集が事実上、日本でヘアヌードを解禁させるきっかけとなった! そして・・・1993年、糸井重里氏と結婚し、糸井可南子となった。 |
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※浜田まき – 「See You Again!」(1996年12月25日 COMPASS 山岸伸撮影) Maki Hamada |
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浜田まき・・・昭和49(1974)年9月23日生まれ、東京都品川区中延出身。 目白学園女子短期大学卒業。 全く知らなかったが、川上裕子名義にてAV女優として活動した時期がある。 身長160cm、B90cm、W59cm、H87cmの素晴らしい肢体をしている! |
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※有森也実 – 「夜想曲 ノクターン」(1988年12月、講談社) Narimi Arimori |
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有森也実(ありもりなりみ)・・・昭和42(1967)年12月10日生まれ、神奈川県横浜市出身。 清楚で優等生のイメージがあるが、有森本人の性格は『酒豪』で『カラオケが大好き』でサバサバとした性格との事である。 恋愛に積極的で、仕事が終わって彼氏の家に行って、彼氏と24時間唇が腫れるまでキスをした。 彼氏が骨折で入院した時に、毎日長い文章の手紙を送り続けて彼氏がストレスで胃潰瘍になった。(笑) ドラマと実際のキャラクターに差があることが原因で、恋愛が短期間で終わることが多々あったという。 生放送で波田陽区が好きだと告白した事があった。波田を好きになった理由が、地方ロケに行って波田をテレビで見て疲れが吹っ飛んだ!とのこと。 有森本人はメールアドレスを波田に教えるつもりだったという。 『ライオンのごきげんよう』出演時に、2012年現在の悩みは老眼だと話した。 ホントに不思議で可愛らしい女性であるが、現在も独身である。モッタイナイ事だ! |
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※葉月里緒菜 – 「RIONA」(撮影;篠山紀信、1998年5月1日ぶんか社) Riona Hazuki |
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葉月里緒奈(はづきりおな)・・・昭和50(1975)年7月11日生まれ、東京都出身。 親の仕事の関係で、10歳から高校2年生までをアメリカ合衆国のシカゴで過ごした帰国子女。 1992年、写真家・会田我路氏に見出されて芸能界入りする。 1993年、『丘の上の向日葵』への出演で本格的にデビュー。「美少女女優」と呼ばれ、アイドル的な人気を得る。 1995年、映画『写楽』で共演した真田広之氏との不倫が話題となる。 雑誌『週刊朝日』誌上でのインタビューでは「恋愛相手に奥さんがいても平気です」と語り、真田は当時の妻で女優の手塚理美氏と離婚するなど、「魔性の女」と呼ばれ、以降バッシングを受けることになるのである。 1998年、篠山紀信撮影のヌード写真集『RIONA』を出し話題となる。(出版科学研究所調べ、2003年6月までの集計で50万部を記録) 同年、アメリカ合衆国ハワイ州在住の寿司職人と電撃結婚するも、わずか2ヶ月で離婚。 2003年、映画『スパイ・ゾルゲ』に出演。翌年2月に芸名の表記をそれまでの「里緒菜」から「里緒奈」へ変更したが、結婚・出産により芸能活動を休止する。 2006年、ドラマ『相棒』への出演で女優業に復帰した。 ※2004年に、別の男性と2度目の結婚。同年11月7日には長女を出産したものの2015年に2度目の離婚をしていたことが明らかになった。 2018年には、一般人男性と3度目の結婚をしたことが明らかになった。 |
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※林葉直子 – 「CONFESSION」(1995年、竹書房) Naoko Hayashiba |
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林葉直子・・・昭和43(1968)年1月24日生まれ、福岡県福岡市出身。福岡第一高等学校卒業、第一薬科大学薬学部中退。 5歳の時に父親から将棋を教わり、女流アマ名人戦に小学6年生で優勝するなど「福岡の天才少女」と騒がれた。 1979年11月、奨励会に6級で入会、蛸島彰子氏についで2人目の女性奨励会員となる。同時に小学校在学中に上京して米長邦雄宅に住み込みの内弟子として師事するようになる。 1980年4月、12歳で女流棋戦主催者の強い要望を受けて、米長邦雄門下で女流2級でプロ入り。早くも頭角を現し翌年の第4期女流王将戦リーグで勝ち抜き、1982年4月にタイトルに挑戦。同月27日に史上最年少の14歳3か月で初タイトルである女流王将を蛸島彰子氏から奪取。 その後、続けてデビューしてきた同世代の中井広恵・清水市代氏とともに1980年代半ばから1990年代半ばにかけて、女流三強時代を築き、三人の中のいずれかが女流タイトル戦に登場した。 1982年から1991年まで女流王将を10連覇(同一タイトル10連覇)。その功績が認められ、1991年に女流棋士として初めてのクイーン称号「クイーン王将」を贈られる。 実力があるだけでなく、ルックスの良さもあいまって、テレビのドラマやCMなどにも出演。将棋の女流棋士の存在を世間に広めることに大きく貢献した。 |
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※林葉直子 – 「SCANDAL」(テイアイエス、1998年) Naoko Hayashiba |
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※失踪事件※ 1994年5月29日に林葉は「心身ともに疲労を感じ極限状態にあるのですべての活動を停止ししばらく休養したい、保持していた倉敷藤花のタイトルも返上した上で、棋士としての処遇は理事会の決定に従う」という旨の休養願いを、理事の勝浦修を通じて日本将棋連盟理事会に提出し、姿を消した。 6月1日、理事会は林葉の功績を考慮し特例としてこれを受理。 しかし、既にスケジューリングされている対局の扱いについて林葉と話し合う必要があるにもかかわらず、林葉との連絡が取れなかったため、行方不明として中途半端な状態が続いた。 6月9日、10日の対局に林葉が現われなかったことで、6月11日に新聞・雑誌・テレビのワイドショーなどで林葉が失踪したと一斉に報じられた。 実際にはこの時に林葉はロンドンへ行っていたのだが、様々なボタンの掛け違いで、海外での休養が失踪騒動として独り歩きしてしまった。 河内家菊水丸がラジオでドバイで目撃したと主張したり(林葉本人はインタビューで否定)、中にはサティヤ・サイ・ババに会いにインドへ行っているというデマまで流れた。 6月下旬、アイルランドに滞在していた林葉は国際電話で連絡を受け日本で騒動になっていることを初めて知り、急遽理事会の担当者に連絡し、詫び状を提出し早期復帰を約束した。 しかし、月刊誌『マルコポーロ』が7月上旬にアイルランドで林葉に接触し、連盟の頭越しに林葉の独占手記を掲載したことで、理事会が態度を硬化させた。 理事の中には強硬に林葉の除名を主張する者もいたという。 その後、7月18日にイギリスから帰国。将棋連盟から3か月間の出場停止(7つの対局すべて不戦敗)、その期間の公的活動の停止と約150万円の損害金の支払いなどの処分を受けた。 そして7月20日、釈明の記者会見を行った。 11月からの第2期大山名人杯倉敷藤花戦の番勝負で復帰するものの、精彩を欠き挑戦者の清水市代に連敗してタイトルを失った。 翌1995年8月24日、突如として日本将棋連盟理事会に退会届を提出。これが受理され将棋界を去ることとなった。 段位は女流五段で、最後の対局は8月8日の第22期女流名人位戦B級5回戦の山田久美戦であった。 退会理由は「将棋が嫌いになったわけではないが、情熱が冷めた」ためとしている。 退会記者会見をしたその夜、林葉は新宿の料理店で行われていた羽生善治六冠と畠田理恵氏の婚約祝いの席へ駆けつけている。 引退後しばらく林葉は「千駄ヶ谷近辺には行きたくない」と語り、将棋の盤駒や新聞の将棋欄などは見ないようにしていたという。1995年、将棋連盟退会と同時期に写真集『CONFESSION 告白』にてヘアヌードを発表。 さらに1998年には1992年から続いていた中原誠氏との不倫を告白し、再びワイドショーの話題となる。 この当時、これらの一連の出来事で良くも悪くも女流棋士の知名度を大いに高め、他の女流棋士は自らの職業を名乗ると「あの林葉直子の」と反応されることが多く、非常に困ったという。 2004年、ペンネーム「かとりまさる」名義で、月刊アフタヌーンで将棋をテーマとした漫画『しおんの王』の連載の原作者として執筆活動を開始、2008年まで4年間続いた。 2004年、六本木で「Woo Curry」というインド料理店を経営する。店名は「うー、辛え」から。内装はミニクラブの居抜きで、インド人シェフによる本格的インドカレーの店だったが、経営は苦しく1年余りで閉店。 店には将棋盤と駒が置かれていたり、林葉と同年代のプロ棋士や後輩の女流棋士が彼女の人柄を慕って店に通っていたり将棋関係者と交流が続いていたという。 そして・・・ 2006年、自己破産。 2008年、『しおんの王』の原稿を書き終えた後に体調を崩して、半年ほど入院をしていた。 退院後は福岡へ戻り、静養したり将棋好きな寺の住職と将棋を指したりの日々が続いた。その後はタロット占い師として活動。日本将棋連盟とは退会前後の騒動の影響で疎遠になったものの、2010年5月に将棋ペンクラブの交流会にゲストとして15年ぶりに将棋会館に足を運び、斎田晴子氏らと同席し、2010年7月28日、親友である中井広恵氏の誘いを受け、日本女子プロ将棋協会 (LPSA) の公認棋戦である日レス・インビテーション・カップに主催者の日本レストランシステム特別推薦で約15年ぶりにプロ棋戦に登場。中倉彰子女流初段と対局して74手で敗北するなど、何度か将棋関連の活動を行なっている。 また元師匠である米長邦雄氏が死去した際に、関係者として2013年3月号の「将棋世界」で見開き2ページの破格の扱いで追悼文を寄せている。 |
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